恋煩い2009/10/17

はぁ、と深い溜め息を吐いて物思いに耽る息子を見かけた昌幸は、これはもしやと期待をこめて声を掛けた。

「幸村」
「…父上?」

はた、と気付いて慌てて姿勢を正す幸村に、昌幸は笑って楽にするよう促した。親子としてでなく師匠として鍛え上げている為、親に対してでも几帳面な態度をとる息子に昌幸は内心困っていた。

「如何なされましたか?」
「それは私の台詞だ。最近稽古にも身が入っておらぬようだがどうしたのだ?」

ハッとした顔で一瞬強張り、そして慌てて頭を下げて平伏する。

「も、申し訳ありませぬ! この幸村、精進が足りずに父上に対してそのような無礼な真似をしておりましたとは! 気付かぬとはいえ何たる…」
「いや、良い。良い訳では無いが…理由は何だ? 私に相談してみる気は無いか?」
「は…? し、しかし…」

やはりその手の話は父には話し難いのかと思案していると、幸村は意を決したように顔を上げて口にした。が、それは昌幸の想像を上回る悩み事であった。

「父上。某は、何故人間に生まれたのでしょうか」
「…何?」
「人の身では、あの方のお側に仕える事も、お役に立てる事も出来ませぬ! いつもあの方がどうしているのか、何か出来ないかと毎日そればかり考えてしまっていて…何をするにも気が入らぬのでございまする」

ションボリと項垂れてしまった息子の姿に、昌幸は目を丸くする。と同時に、やはり恋煩いではないのかと思ったが、それが何故人間かどうかという話になるのだろうか?と首を傾げる。

「何だ、オマエの恋の相手は人間ではないのか?」

昌幸が冗談交じりに問うと、幸村は真っ赤になって叫んだ。

「こ! 恋等と…! これはそのような破廉恥な想い等では…」

カッカッと湯気を出しながら俯いてしまった息子を、驚きの目で見詰めた。

「相手は、私の知る者なのか?」
「それは…」

うっと言葉に詰まる幸村の背後から、ガサリと庭の茂みが揺れ動いた。

「ニャア(帰ったぞ)」
「お! お館さまっ!!!」

パアッと幸村の顔が輝きを増した。昌幸は吃驚した顔でそれを眺める。

「ニャー(腹が減った。食事を持てい)」
「は! 今直ぐご用意致します! 暫しお待ち下され!!」

パッと立ち上がって駆け足に大急ぎで猫缶をとりに行く嬉々とした幸村の後姿を、呆然とした表情で見送った昌幸は、ヤレヤレと言わんばかりに縁側で腰を落ち着けた信玄の側にソロリと近付いた。

「…お館さま?」
「ニャ?(何じゃ)」

顔を上げて腹が減っている所為か鋭く睨む信玄に、昌幸は近付き難い気迫を感じて慌てて下がった。

「うぉおおおおお館さまぁああああ! お持ち致しましてござりますぅうううう!!!」
「ニャ(ご苦労)」

息を切らせて食事を運んで来た幸村は、その勢いとは対照的に、丁寧な所作で信玄の前に器を差し出す。そしてそれを当然のように、ゆっくりと信玄は食事を始めた。幸村はこれ以上ない程幸せそうな顔でうっとりと見守っていた。その表情は正に恋する人間そのものの姿である。

「……まさか」

ヨロリとよろめく昌幸の肩に、何処からかスルリと舞い降りて止まった佐助が一声鳴いた。

「カァ。カァカァ(気をつけて下さい昌幸さま。幾ら父君とはいえ、馬に蹴られますよ)」
「佐助…お前…」

じっと佐助の黒い目を見詰め、そして目の前の和やかな一匹と一人の姿を見て、肩を落とした。